スポンサーリンク

2016-04-14

「理想の教師像」とは何か?まず、教師、教員、教官、教諭というさまざまな用語の微妙な違いを考えてみたい。これらは慣用的に幾つかの使い分けがされるのであり、特に〜でなければならないということはない。

「教員」が一番広く使われている。そして、教員同士が互いを呼び合うときは、「〜先生」という語をつけて呼び合う。

「教諭」とは中等教育と初等教育で教育に携わる者を行政上でそのように呼んでいる。高等教育の場では、「教授」という表現が使われている。

「教官」とは、「官」であるので、国公立大学の教員を指す。それ以外に国立の防衛大学校とか気象大学校なども教「官」である。

「教師」は師として仰ぐという意味がある。人格的にも優れていて指導力があるというニュアンスがある。それゆえに、「理想の教師像」となると、まず、人格が優れていて、教える技能が優れている人である、が定義となる。

「人格が優れている」だが本当か?よく「教師の犯罪」が新聞に話題になるが、それは稀であるからニュース性があるのである。職業別の犯罪発生率をみてみると、おそらく教員の犯罪発生率はかなり低いほうだと思う。

学校という世界で働く人間の最大の特徴は、「競争にさらされない」世界に生きているということであろう。営業マンのように毎週たがいに売り上げを競いあう、ことはない。常にストレスにさらされるということはない。勤務先の倒産も滅多にない。すると人間がおっとりとする。いい意味でも悪い意味でもおっとりするのである。

ここからは自分の私見である。余談ということだが。人々がたがいに「おっとりとして」生きるのが理想社会ではないか。これだけ科学技術が発達したのであり、全人類が楽しく飲み食いして生きていけるだけの生産量はあると思う。もうたがいに必死の競争は不要ではないか。ストレスなどがない、人々が「おっとり」生きれる世界が理想郷である。そんな世界の存在を「教師」は人々に示しているのである。(そこから、ベーシックインカムの話をしたいのだが、これは別の機会に)

 

スポンサーリンク