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ある学生の論文指導をしている。その学生は、小学校の外国語活動では国際理解の要素がなおざりにされがちなので、そのことを懸念して、色々な小学校の授業を見て行き、どのように取り入れたらいいのか提案をしているのだ。その学生の考えは以下のようなことだ。
現在の外国語活動は、「外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め」と学習指導要領には謳ってある。この文言の解釈だが、言語を中心に理解すればいいのだという考えがある。つまり、「外国の言葉を理解」しさえすれば、言葉も一つの文化であるから、外国の文化を理解することに自動的につながるという考えなのだ。そうすると、現在行われている外国語活動(英語活動)は自動的に「英語圏の文化を知ることになる」ので、ことさら文化理解に重点をあてて活動する必要はないと考える人もでてくるだろう。
しかし、その学生は、異文化の理解は単なる言葉の学習よりも重要な意味がある、あるいは、少なくとも同等の重要性があると考えている。その意味で、外国語活動の中に、意識して異文化理解・国際理解の要素を取り入れるべきだと考える。そうでなければ、言葉の学習ばかりに重点が置かれて、異文化理解・国際理解の要素が忘れ去れてしまう危険性があると考えるからだ。
なお、この学生の論文の中では、「異文化理解」とか「国際理解」とか「異文化理解・国際理解」のような表現が出てくるが、そこでは、「異文化理解」と「国際理解」と同じであると考えている。この二つの用語は異なるとする論文もいくつか見かけるが、この学生は同じであるとして、論を組み立ててゆく。それはそれでいいだろうと思う。結局は、グローバルスタディーズ、人権教育、平和教育、環境教育などとも方向性が同じである考えなのだろう。