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学生の卒業論文を読んでいる。ある学生は国際理解教育に関する疑問に対して回答するという形式で卒業論文を書いている。それは、「国際理解教育はなぜ英語の時間で行うのか。他の教科でも学んでいるから、特に英語教育の時間に行わなくてもいいではないか」という疑問である。その学生の回答の要旨は次のようになる。

国際理解教育は外国語活動以外の教科でも行うことができる。例えば、第3学年から 学習し始める社会の授業で、海外の地理や経済に関する説明を聞くことで、海外について知る授業がある。児童は、海外の産業や貿易や天候を知ることができる。さらに、日本が他国との協力によって成り立ってたりすること、つまり、日本と諸外国との関係を学ぶことができる。日本と他国の問題について、いつも友好的なだけではなくて、時には対立関係もあり、そのような関係の調整をすることがあることを知ることになる。それらを総合して、日本をとりまく諸外国の存在を知ることになる。それは、国際理解教育につながるのだ。
しかし、私は外国語活動であるからこそ国際理解教育の要素を取り入れるよさがあると 考える。まず、外国語活動という授業自体が児童にとって「他の国のことを学ぶ意識」をもたせるため、外国や外国人の存在が直接的に伝わりやすい。つまり、外国人そのものと接して言葉を交わして、血肉を持っている存在としての外国人を体験的に知ることができるのである。
社会の授業では、どうしても座学であり、外国を抽象的に知るだけに留まる。しかし、外国語活動の授業では、同じ人間としての外国人を個別・具体的に知ることができる。それはALTや招待された地域の外国人、スカイプを通してやり取りする外国の小学生との直接的なコミュニケーション体験を通して国際理解教育を学ぶことになる。

だいたい上記のような、回答でいいだろうと思う。気になったのは、外国人という言い方である。このようなグローバル化が進展している世の中では、外国にルーツを持つ日本人たちが増えてきている。日本国内で異文化に属する人々が最近増えてことである。日本に帰化した人々も増えている。日本人として長い生活をしていても異文化の人もいる。逆に、日本の国籍を持っていても、外国に定住している人もいる。いまは、そのような人はマイノリティであるが、次第にこの列島に住む人々の大多数がそのような人になるかもしれない。将来は、そのような可能性があることを知ることも国際理解教育になるだろう。

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