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アクティブ・ラーニングについて、先日の記事でその方法を語った。しかし、この方法は批判もけっこう多い。要は子どもには主体的、対話的な学習は難しいのではという意見だ。その点を踏まえて、アクティブ・ラーニングの限界とその対策を考えてみたい。
アクティブ・ラーニングはどのようなものか。
従来の英語教育が教員から生徒への一方的な伝達、それも英語文法を中心とする読解の訓練に明け暮れていたことへの反省がある。その反省からアクティブ・ラーニングが提唱された。
中教審は、主体的な学び、対話的な学び、深い学び、を提唱している。具体的には、それは、グループ・ワーク、調べ学習、ディスカッション等を通して、生徒たちが互いに協同で調べて、討議して、学を深めようとすることである。 これからのグローバルな世界では、単に受け身の学習では乗り切れないとの文科省の危機感が感じられる。
アクティブ・ラーニングの問題点
問題は、生徒が主体的に学ぶためには、相当の動機付けと知識が必要な点である。動機付けと知識が深まって初めてアクティブ・ラーニングは可能である。まだ、小学生や中学生が学術的な議論ができるかが疑問である。そのためには、あまり深い知識や洞察が必要とはせずに、ただ主体的な学習に向かう態度を身につけさせることが重要である。
指摘される問題点とは以下のようである。
- 生徒同士で話し合わせても雑談になるだけで、議論は深まらない。
- 議論させてある種の結論に到達したとしても効率が悪い。
- ふざける生徒が多い、特に動機付けの低い生徒が、動機付けの高い生徒の邪魔をする。
- 話し合わせるとフリーライダーが出てくる。
- 知識を持っていない生徒同士の話し合いでは、何ら知識の習得はできない。
- グループ全体の評価は可能だとしても、一人一人の生徒の評価が難しい。
- 教室内で一番秩序が保てるのは、一斉授業である。一人一人の生徒への目が行きとどく。
個人的な思い出
中学2年生の時の理科の先生は有名な研究者だった。学会発表などで休講が多い人だった。授業は整理ノートを使って、生徒が順番に発表するという形式であった。今で言うアクティブ・ラーニングの走りのような授業であった。子供心にも、高名な先生は手を抜いている。生徒に代わりに授業をさせていると感じた。とにかく、その授業では学んだことはほとんどなかった。
国語や社会の授業
ただ、国語や社会の授業ならば、ある程度はアクティブ・ラーニングは可能であると思う。国語や社会は日本語という言語を用いるのであり、生徒たちの母語である。ところが、英語にアクティブ・ラーニングを取り入れようとするとかなりハードルは高くなる。
対話的な学びをする場合は、本来ならば、英語で対話して何かの結論に達すればよい。しかし、現実的には、日本語で英語圏の文化や言語に関する知識を深め合うことであろう。たとえば、一般には、机を集めて5,6人の生徒がグループを作り、たとえば、「アメリカと日本の挨拶の違いを調べてみましょう」という課題に対して、映画やテレビ、YouTube 等で見た情報を持ち寄り、互いに検討して、画用紙や模造紙にまとめる。あるいは、PowerPoint にまとめてゆくという作業を行う。
しかし、文科省が目指しているのは、究極的には、英語で対話的で主体的な学びを目指すのだろう。でも、英語でのディスカッションを中学生がするとなると(高校生でも)かなり困難だ。その場合の妥協として、インフォメーションゲームを応用したゲーム感覚のやり取りならば可能ではと思う。例えば、お互いに地図を隠して、場所をあてさせたりすることだ。これはたくさんの応用のパターンが紹介されている。
組み合わせた授業
結論的には、一斉授業とアクティブ・ラーニングを組み合わせたものが理想であると言えよう。西洋諸国では、日本よりもはるかに対話的な授業、調べ物授業が取り入れられている。これは文化的な側面もあり、一挙にそのような態度になるのは難しいと言えよう。教員ができることは、子どもたちに、主体的な学び、対話的な学び、を身につける足がかりをつけることである。