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ホリエモンが本を出している。『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 』(光文社新書)という本だ。これはかなり評判がいいようだ。

でも、「すべての教育は洗脳である」と言い切っていいものか。例えば、私のこのブログのタイトルは「学生と考える英語教育」である。授業の一環として、学生にこのブログを提供している。「学生と一緒に考える」のだ。授業の前とか後に、このブログを読んでもらえればと思っている。

自分の今までの授業は講義形式であった。私が教壇に立って、何やら話してゆく。学生は聞いたことをノートにつけてゆく。大抵は一方通行である。話されたことを学生は覚えてゆくというプロセスの繰り返した。これは洗脳になるのだろうか。なるほど、そうかもしれない。

これが現職の教員を相手にする免許更新の授業になるといろいろな意見が飛び交う。「やる気がない子どもたちをどのように動機づけるか」などと質問すると、受講生の多くは「自分はこうやった、このような工夫をした」と手が上がり、自分の実践経験を披露してくれる。私も教えられることが多いし、為になる。このような授業は洗脳ではない。

免許更新の授業は、一方通行の知識伝達の授業ではなくて、現職の教員の方々が、一堂に集まって意見交換を行う機会であると考える。受講生同士が仲良くなって、授業が終わった後でも、グループを作り刺激し合う活動を続けて行って欲しいと思う。

問題は、学生に「英語教育法」のような授業を教えることである。「英語を教えた」という経験がない学生に対して、どのような話をしたらいいのかが私はいつも迷ってしまう。

「これをどう思いますか」と問題提起をしても学生は黙っていることが多い。無理もない。例えば、「やる気がない子どもたちをどのように動機づけますか」と質問しても、学生たちは困ってしまう。学生たちはそのような経験をしたことがないからだ。答えるように無理強いしても、答えは上滑りをしてしまう。

どうしても、一方通行の授業になってしまう。それは洗脳であると言ってもいいかもしれない。

英語教育法の授業は、本来は、教育実習と重なりながら行うのがいいのだろう。英語教育法に限らず、全ての教職関係の科目、教育原理、教育心理学、教師論、などは教育実習を実践しながら、講義を受けてゆくと理解も深まるだろうと思う。不可能ではあるが、可能な限り実際の場面が想像できるように取り入れてゆきたい。

さて、私の授業「英語科教育法」はどうしたらいいのか。できるだけビデオを見せたりして、実際の授業のイメージをつかんでもらうことが大切かと思う。あるいは、模擬授業を一人一人行って、感想を述べあるのがいいのかとも思う。

問題は二つに分かれる。一つは、私が行なっている英語科教育法の授業が一方通行にならないように、どうしたら対話形式の授業にできるかということである。

次は学生が将来教えるだろう英語の授業で、「どのようにしたら教員からの一方通行ではなくて、対話形式の授業へと展開できるかと」いうことを学生に考えてもらうことである。

学習者中心の授業は、英語の授業だけでなくて、英語科教育法の授業でも必要である。それはホリエモンがいう、洗脳の授業とは異なるものである。

現代のように、ネットで何から何までわかってしまう時代は、今まで権威あるもの、学校教育、書籍、新聞、テレビなどの没落が著しい。でも、学校教育は出会いの場を提供するのか、学ぼうとする人々が顔を付き合わせて語り合う場の提供であり、教員はその場での司会者役、Moderator, Facilitator 役に徹すれば、学校教育は決して洗脳にはならないと思う。

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)

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