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高コンテキストと低コンテキスト

高コンテクスト文化と低コンテクスト文化は有名な文化人類学者のエドワードホールの唱えた定義である。

コンテクストとは文脈のことであり、その社会に住む人々の間には、共有する文脈・社会的な背景が多くある。そこでは、言葉は余り必要とならない。共通の文脈・社会背景に高度に依存しているのであり、言葉を介在しなくても分かり合えるのである。つまり、高コンテクスト文化とは、人間関係や社会習慣などを維持してゆくために、言語メッセージ以外に依存する傾向が強いタイプのコミュニケーションを指す。詳しく言葉で説明しなくてもお互いに分かりあえる状態、いわば「察しの文化」である。

それに対して、言葉をはっきりと用いてコミュニケーションする文化がある。これは、低コンテクスト文化と呼ばれている。共通の文脈・社会背景がない(低い)ので、たがいの意思を伝えるものは「言葉」しかないのである。そのような社会で生きてゆくためには、「言葉の力をつける」、つまり、「コミュニケーション力を磨くこと」が必要となってくる。そこでは、論理的に明快な言葉を使うこと、巧みな話術、弁論術が必要とされるのである。

欧米と日本

ヨーロッパやアメリカのように多様な文化の人々が一緒に住む、絶えず住居を移動しているような社会では、相手の気持ちを察することはできないという前提に立っている。言葉に頼るしかない。はっきりと話す(speak out) することが必要である。嫌ならば、Noとはっきり言わないと通じない。受け入れるならば、はっきりとYESと表明する必要がある。職に新たにつくときは、全てを契約で明示する必要がある。自分の仕事は何をするのか、逆に何をしてはいけないのか。賃金はいくら支払われるのか。そして、トラブルの解決策もあらかじめ記しておくのだ。(授業でバイトをしている学生に聞くと、契約などなくて何となく働いているそうだ。それでも、さほど大きなトラブルが生じないのは日本社会の特質か?)

それに対して、典型的な日本人は、同じ村で共同生活を長らく続けていたのである。互いに分かりあう程度が高かった。日本人の生活の範囲は、時代を経て、村から町へ、そして市、県へと広がりを見せてきた。あるいは、会社などの組織もその延長上にある。もちろん、日本人の社会では、他文化に対して戸惑いの言葉を発することがあった。「京都の人は気取っている」とか「大阪人は利にさとい」などのような非難の文脈で語られることもあった。だが、基本的には高コンテクスト文化の中に生きてきたのだ。同じ日本人同士の文化の中で生きているという意識が強かった。

しかし、外国人住民の増加にともない、人々はどのような態度を取ったらいいのか分からなくなってきている。自分とまったく異質の文化の人とどのようにして交流するのか。察しの文化では通用しないであろう。あくまでも、言葉ではっきりと、互いの希望を伝えなければならない。例えば、ゴミ出しについて外国人住民との間でトラブルになっていると仮定する。その時に、「いつの日にか日本風のゴミ分別の方法を覚えてくれるだろう。強く言い張ると角が立つので、いつの日にか相手が察してくれるのを待つ」という方法では良くない。とにかく、はっきりと分かりやすくこちらの希望・要望と伝えなければならない。

学習指導要領

外国語に関する学習指導要領の中では、「コミュニケーション」という言葉がキーワードになっている。これだけ、グローバル化が進む現代においては、日本人が生涯、日本だけに住んで、日本人とだけの交流ですむとは考えにくい。好むと好まざるとに関わらず、世界の様々な文化の人と付き合うことになる。そのような認識を文科省ははっきりと持っていて、それを教育を通して実現させようとしている。

日本社会の察しの文化が、他の社会では通用しないことがある。むしろ低コンテクスト社会の文化が普通である。これからの若い人たちに、そんな文化でも生き抜く力をつけさせようというのが文科省の狙いであろう。外国語教育(英語教育)を通して、積極的に発信するというコミュニケーション能力や態度を養う、というのはそのような視点から理解されるべきである。

英語教育

英語教育とは、外国人と積極的にコミュニケーションを取ろうとする態度の育成である。それによって、いくいくは日本人同士でも、低コンテキスト社会を生きるかのような態度が生まれてくるだろう。日本人同士が英語で話す訓練をするときは、意外とズバリと言いたいことを言うことが多い。察しの文化を成立されるためには、高度な日本語の言語能力が必要とされるが、英語を解する場合は、ズバリと言わざるを得ない場合も多い。その意味では、英語教育は、外国人のみならず、日本人同士のコミュニケーションのあり方を変えてゆく可能性がある。

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