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2016-04-25

日本では、戦前は国家統制の強い教授要目(中学校)、教授細目(小学校)が制定されて教育課程はそれを従うようになっていた。

1902年2月6日「中学校教授要目」が制定された。この教授要目は「要目実施上ノ注意」と各学科の教授要目から成り立っており、後者は各学科目の教授項目別の学年別配列と「教授上ノ注意」から構成してある。この要目を国家基準として示し、地方長官は各中学校長に対して要目に準拠した教授細目を作成させることを求めている。これによって、中学校令施行規則に規定された各学科教授内容を具体的に示し、詳細にわたって学科課程を整備したのである。

このように教育が一貫して行われたのであるが、敗戦後はアメリカの指導のもとに、兒童中心主義、経験主義に基づいて教育方法が大きく変わることになった。GHQ 指令で廃止された「修身」・「日本歴史」・「地理」に代わって、「社会科」が新設された。また、小学校で男女共修の家庭科を、中学校で職業科を設置した。また、「自由研究」が新設された。

日本が戦後学習指導要領を作成したときは、アメリカの the Course of Study を参考にしたのである。しかし、現在のアメリカでこのthe Course of Study を使用しているかどうか定かではない。また、the Corse of Study という表現を用いているかも定かではない。

なお、アメリカ合衆国では教育は州の責任事項とされており、学習指導要領も各州ごとで作成している。あるいは、州ごとだけでなくカウンティ(郡)単位でも作成しているところもある。

学習指導要領は戦後の一時期の目安という立場から、また戦前のような国家統制の性格が増えてきたように感じられる。

 

 

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