昨年は私は大阪にある大学で非常勤講師の仕事を週に一度行った。その時の授業は楽しくて、ノリがいい学生たちで、授業でもいろいろと話が弾んで。その時の学生の一人(Sさん)が私のことを覚えてくれていて、メールをくれた。それは次のような内容であった。「私は今4回生(もうすぐ卒業ですが)になり、卒業論文を製作しています。小学校高学年の英語が教科化することについて反対意見を書いているのですが、先生はどのように感じますか?」
英語の教科化についてSさんは疑問に思っていて、現状のまま、英語は「外国語活動」として領域としてあるのが、子どもたちにとって最善だという意見のようだ(Sさんの卒業論文の原稿を見ていないので、私の勘違いがあるかもしれないが)。
私としては、以前に、小学校の英語教育について書いた論文があるので、それを貼り付けてみたい。長いので、数回に分けて貼り付けてゆく。Sさんは、それをざっと目を通して、参考にしてもらえればと思う。タイトルは「小学校の英語教育を考える」である。まず、第一部である。
はじめに
小学校の英語教育のあり方を問うことはどのような意味があるのだろうか。それは英語教育のあり方をその必然性に立ち戻って問うことにつながる。長い間、英語教育は日本人全員に課せられた必然であって、その必要性を疑うことは少なかった。それは教員も生徒も受験勉強の渦に呑まれてしまい、どのようにして英語の成績を上げるかという点に関心が集中せざるを得ない状態になり、「何のために英語教育はあるのか」という問いを発する機会があまりなかったからである。
ところが、小学校へ英語教育の導入が行われることで、この状態に変化が起こった。小学校の段階では、受験勉強を意識しなくてもいい。公立の中学校には試験なしでそのまま進学できる。私立の名門中学校へ進学する場合も、試験自体は厳しいかも知れないが、英語が試験科目になることはない。さらに小学校では正式な教科ではなくて、道徳や特別活動と同じ領域と考えられていて、成績評価の対象とはならない(1)。英語教育関係者たちは、試験などを意識せずに腰を据えて「何のために英語教育があるのか」という問いかけができるのである。
もちろん、中学校や高校の場でも英語教育の意義を問う人はいた。たしかに、問題意識を持った教員や教育関係者は長い間この問題を問い続けてきたのである。しかし、その問いかける声はあまりに小さかった。中学や高校における「受験」制度の存在があまりに大きいために、根本に戻って「何のために英語教育があるのか」という問いかけをすることは稀であった。
このような背景のもとで、「何のために英語教育があるのか」という問いかけを本格的にすることが、小学校での英語教育の導入を切掛けにしてはじまり、その問いが波及して中学校や高校の場での「何のために英語教育があるのか」という問いかけにもつながりつつある。そして、小中高と貫いて全体の英語教育の意義を考えることへと進む。とにかく、現代において、小学校への英語教育の導入を契機として、深く根本的に問いかけて考える切掛けが生まれた。
実は大学でも英語教育の意義を問うことはしばしば行われてきた。大学英語教育は社会に役立つべきであり、教室では実用的な英語を教えるべきであるという主張がある。それに対して、人格の陶冶を第一目標とすべきであり、教養英語を教えるべきであるという主張がある。つまり、大学での英語教育は実用英語を教えるべきか教養英語を教えるべきかという問いかけでなる。それは、大学教育はどの程度、社会からの要請に応えるべきかとの問いかけになる。今から40年ほど前は、19世紀の文学作品を法学部や経済学部の学生の英語テキストとして使うこともあったが、現代では文学作品は教材としては稀になってきている。その意味では、近年、実用英語への傾斜が著しくなっているようようだ。しかし、実用英語主義者と教養英語主義者の間での議論は続いており、最終的な結論が出たとは言えない。
ただ、大学教育の多くの場では、卒業後にどのような職業につくかを常に意識していなければならないことは事実である。観光業に就く学生には観光英語を学ぶ必要があり、医者になる学生は医学英語を学ぶのは当たり前である。逆に、仕事で英語をまったく使わないならば、英語を勉強しないという選択肢も可能である。
大学教育とは学生が社会に羽ばたく直前の教育機関であり、社会や産業界の圧力を最も強く受ける場である。つまり「社会にどのように役立つか」という観点からの問いかけになる。教養英語を教えるべきと唱える人も、その方が社会の中で生きていく学生たちの生活を実り豊かにするだろうという「実用的な視点」から主張しているとも考えられる。
このように、大学教育では語学教育の実用性という視点からの問いかけがほとんどで、英語教育自体の問題(英語を教えるべきか否か、という問題を含めて)へと発展することはなかった。その意味では、小学校における英語教育の場が、英語教育に関して最も鋭い問いかけができる場であると言えよう。
次に、子どもの成長の度合いを考慮してみたい。小学校の時期は、それ以降の中学・高校・大学の時期とは本質的に異なる点がある。それは、子どもたちの吸収力がきわめて旺盛で、可塑性が高い時期であるという点である。そのような大切な時期に、ある一定の時間をさいて子ども達の頭の中に何かを注入するのである。それは極めて有意義なものを注入しなければならない。それゆえに、英語を教えるとしたら、どのように英語教育をおこなうか、どのような英語を教えるか、それは慎重に検討されるべきである。
現状では、わが国では、2011年から、公立小学校において、外国語活動として英語活動が必須になった。いわゆる小学校の英語教育の開始である。すでに開始されているのだから、小学校英語教育に関する問いかけは、実践的な問いかけ、つまりどのように進めるかという問いかけであって、存在自体への問いかけ、つまり行うべきかどうかという問いかけを発するのは、もはや不毛であり、非生産的であるとの意見もある。例えば、2012年24年1月12日に行われた、森文部科学副大臣の定例記者会見では、副大臣は「ただ、事業仕分けで御指摘いただいた、英語の教育が小学校で必要か必要でないかという部分は、これはもう神学論争になってきていると思います。文部科学省としては、やはり必要であると。さっきも申し上げましたように、小学校における外国語活動というものが、これ必修化しているわけですから」のような発言がある。しかし、本論文ではできるだけ根源的なことから問いかける意味で、小学校英語教育が必要か否かの点まで含めて考えていきたい。
本論文の構成であるが、以上のような問題意識を持ちつつ、次のような順序で考察をしていきたい。
①まず、国家としての英語教育の必要性を検討する。現在進められている小学校への英語教育の導入には、国家はどのような意図を持っているのだろうか。日本はグローバリゼーションに遅れないようにすべきと言われるが、それは小学校への英語教育の導入とどう関係するのだろうか。グローバル化の視点から本当に小学生に英語を教える必要はあるのだろうか。
②次は、小学生というめざましい成長期の子どもたちの言語習得の視点である。母語を習得しつつある子どもにとって、外国語の習得はどのような影響を与えるのだろうか。小学校の英語教育は言語習得の視点から何に気をつけるべきか。バイリンガリズムとの関係は何か、などを考えていきたい。
③また、英語のインプット量の問題も大切である。小学校で英語教育というシステムが十分に機能するためには、どの程度のインプット量が望ましいかという点である。仮に十分なインプット量でないとしても、それでも意味ある授業にするにはどのようにすればいいのだろうか。これは同時に音声教育や文字指導やフォニックスの問題とも関係する。
④小学校の英語教育の目標は何かという視点である。学習指導要領に目標が記されているので、それに注目しながら、小学校で英語を教える意味を考えてみたい(本論文の最後に付録として、現行の学習指導要領を掲載してある)。これは日本の英語教育全体の目的とも関係するのであり、目的を達成するための途中段階の目標として小学校の英語教育の位置づけを考えてみたい(2)。同時に、中学生の学習指導要領も参照しながら、どのようにして小中の接続を行ったらいいか可能性を調べたい(本論文の最後に付録として、現行の中学校の学習指導要領の一部を掲載してある)。さらには、高校や大学での英語教育との接続までも視野に入れて考えてみたい。
⑤小学校の英語教育の大きな要素は教員である。彼らがどのような問題点をかかえて、またどのように感じているか考察してみよう。さらには、教員を支援してくれる存在としてのALT(外国語指導助手)の役割も考えてみたい。さらには教員とALTの両者の関係を考えてみたい。
⑥次は、テキストを考えてみたい。テキストは重要であり、小学校英語教育の成功失敗を決定する大きな要素である。『英語ノート』と対比しながら、最新の『Hi Friends』を調べてみたい。
⑦公立の小学校以外の私立の小学校の動向も考察してみる。
⑧また、外国の語学教育を通して、日本の語学教育を考えてみることも必要である。欧州評議会が提唱する語学教育が現在注目されているが、これは日本の小学校の英語教育にどのような示唆を与えるか検討してみたい。
⑨最後に、まとめとして何がポイントを述べていきたい。
(続く)