1.国家としての英語教育の重要性
1.1 現代の日本社会における英語の必要性
現在の日本社会は、どの程度、英語を必要とするのだろうか。明治維新の時から日本は西洋諸国に追いつき追い越せが国家のスローガンであった。戦前はヨーロッパ諸国を、戦後はアメリカをモデルとしてきた。追いつき追い越すための道具が外国語(英独仏)学習であった。もちろん、その政策は強く進められた時代もあれば、逆に不要と軽んじる時代もあった。しかし、基本的には西洋諸国は日本にとって追いつくべきモデルであり、21世紀になってもその延長上に国の政策が進められていく。その重要な手段は言語学習であった。
2000年に「21世紀日本の構想」懇談会から、英語第2公用語論が発表された。そこでは、英語を日本の公用語にすべきとの提案が見られた。「社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにする」(懇談会最終報告書より)という目標が掲げられたのである。その具体的な解説として、『あえて英語公用語論』(船橋洋一、文春新書)が2000年に出版され、人々の間に一定の反響をよんだ。しかし、英語=公用語という考え自体は、全体に強い反発がありいつしか立ち消えた。
一般の人々は「英語を第2公用語にする」ほど日本社会が英語を必要としているとは考えなかったようだ。実際、国内では、英語が使われている分野はほとんどない。その意味では、この反発は当然のことであった。また、この提案の中に、産業界を中心とした声高な「グローバリズム」の主張を読み取り、産業界の計算高さや自己主張を感じて反発を覚えた人も多かった。それは、社会全体にとっての有益性とか、子どものためにという視点ではなくて、産業界の発展と生き残りという視点が強すぎると感じたのである。しかし、文科省は、繰り返される産業界からの声を無視することはできずに、2012年に、「グローバル人材育成推進事業」を打ち出した。そこでは国際的な産業競争力の向上や国と国の絆の強化の基盤として、グローバルな舞台に積極的に挑戦し活躍できる人材の育成を図ることとなった。
ところで、いわゆるグローバリズムは特定のエリートだけの利益になる恐れがある。その点は注意しながら、グローバリゼーションへ向かうべきである。英語を重視するグローバリゼーションとは、英語教育を受ける機会のあったエリートたちだけのグローバリゼーションになってはいけない。これは英米の旧植民地であった発展途上国によく見られる例であるが、日本でもイングリッシュ・デバイドが固定化される懸念がある。つまり、子ども達を英語教育の充実したエリート校(私立の小学校や中学校)へ送ることのできるエリートだけが英語教育を享受して、エリート層の再生産に繋がり、日本人全体のグローバル化には働かず、逆にイングリッシュ・デバイドが強まるのではという懸念である。
ただ、グローバリゼーションが進む現代においては、少なくとも、従来の日本の英語教育は変化すべきと考える人は多い。教養から実用重視へ、読解からコミュニケーション重視へ、早期化へ、などがキーワードとなっている。それに沿って現行の英語教育の改革が必要になってくるが、その要は、小学校への英語教育の導入である。その主張は先ほど述べた、産業界からの声に代表される。産業界は何ゆえに英語教育の改革の主張をしてくるのか。
1.2 国際競争力
「諸外国は早期英語教育を進めており、このままでは、国際化に大きく遅れをとってしまう。早期英語教育で国民全体の英語力の底上げをしなければ、ビジネスにおける国際競争力が低下してしまう」という主張が産業界に見られる。日本人が将来も生き残っていくためには、国際競争力を維持しなければならないが、そのためには英語を身につけるべきとの考えは根強い。この「国際競争力」という言葉には、強い説得力がある。
「今まで、日本人が比較的豊かな生活を享受できたのは貿易によって経済を発展させてきたからである。もしも日本が貿易の競争力を失ったらどうなるか」という不安をビジネスパーソンたちは日頃から抱いている。この懸念は産業界から文科省への強い要請となっている。また、文科省行政に強い影響を与える懇談会や諮問機関には産業界から常に有力者が委員として加わり、産業界の利益を代表する意見を述べ、その意見が反映されることも多い。
貿易戦争に負けるかもしれないという危機感は日本の各界に強い影響を与えている。産業界や文科省を推進役として、国全体で英語の力をつけていこうとする方針が強まった(3)。英語教育を国家戦略の重要な要の一つとして見なそうとするのである。また、マスコミで派手に取り上げられることもあって、現行の英語教育に関して何らかの改革が必要であるという認識が広まりつつある。英語教育関係者の多くも何かをしなければと、浮き足立っているようにも見える。改革の目玉の一つは小学校からの英語教育であった。
たしかに、貿易の競争相手として東アジアの国々の活躍がよく言及される。韓国のサムソンや現代自動車の活躍がよく報道される。一方で、ソニーやパナソニックなどの日本の代表的な会社が大幅な赤字を出しているとその苦境が報道される。造船、家電、半導体、自動車、製鉄などの、日本のお家芸だった分野で、激しい競争が続いている。今まで日本人が享受してきた高い生活水準を今後も維持していくためには、ライバル国との競争に打ち勝っていかねばならないという緊迫感を産業界は抱いている。その緊迫感は国民全体の英語力の向上に向かう。その第一歩は小学校への英語教育の導入であった。
産業界での危機意識は自らの会社内での英語化という動きで示される。いくつかの会社の動きを見てみたい。英語の社内公用語化の動きが注目されている。『毎日新聞』 (2012年10月8日)の「英語漬け、会議、資料、食堂も」という記事によれば、2010年に楽天は三木社長のトップダウンで英語の社内公用化を決めたという。社内のミーティングはすべて英語でやり取りして、また配付資料もすべて英語で行うという。社内食堂のメニューもすべて英語で書かれているようだ。全社員1万人のTOEICの平均点は700点以上であり、ことしの新入社員の平均点は800点以上を越えたという。また、ユニクロで有名なファストリテイリングも2012年3月から、英語を公用語化したという。全社員の14,000人にTOEICで750点以上を取ることを義務化したという。
これらの会社の動きに対して連想されるのは、サムソンの新入社員のTOEIC平均点が900点を超えている点である。サムソンは入社時の留学経験者も文系職種で約40%、技術系で約50%いるという。サムソンの急成長は英語能力の高い社員たちによるとの見方が一般的である。成長を可能にしたのは、韓国が小学校の時から、英語教育を充実させているとの認識である。そして、韓国の徹底した英語教育は、日本も見習うべきであると唱える人も多い。
バブル時代は日本の経済力は最盛期を迎えて、「欧米から学ぶものはもうない」という傲慢な言葉さえ聞かれた。日本語を海外の人々が盛んに学ぶようになったのである。そのことは日本人の自尊心を大いにくすぐった。ところが、そのバブル崩壊後の長い不景気の時代には、振り子は逆方向に大きく振れて、日本人の自信喪失の時代になった。国際競争力(=英語力)をつけなければ生き残れない、という意識が次第に強まったのである。これは明治時代から伝統的に日本人は外国語への接近と反発を繰り返してきたが、これは最新の接近の動きであろう。
貿易の競争が国家同士の総力戦であるとすれば、英語力は自国の商品を国外に売り込む有力な武器となる。ビジネスチャンスの発見、新技術に関する情報の入手、特許情報、様々な分野で英語力は有利な武器になりそうである。世界の各国はそのことの意味を知っていて着々と対策を進めているように見える。韓国の教育省の明言している外国語教育の趣旨は、「インターネット時代の国際語である英語をマスターして世界競争に勝つ」とある(中田 2011: 166)。つまり、英語教育をそれ自体に教育的価値があるからという判断ではなくて、国家の競争力という基準で行おうとしているのである。
1.3 産業界に広まる英語利用
産業界でのTOEIC採用の動きも上記の動きに連動するのである。採用や昇進やボーナスの目安にTOEICのスコアを使おうとする考えである。英語の研修に力を入れる企業が増え、英語能力を測る物差しとしてTOEICを採用するようになった。たしかに、社員の採用、昇進、海外駐在員の選抜などにTOEICのスコアを活用している企業が増えている。
その動きが受験者数の大きな増加につながっている。近年、TOEICによって測られる英語力は確実に伸びている。国際ビジネスコミュニケーション協会(2012:2)によれば、内定時にTOEICテストを実施する企業では、2006年では平均が448点であったが、その5年後では、平均が499点となり、かなりの上昇を示している、と報告している。
社内での英語の活用は、マスコミによく取り上げられて話題となっている。日産が外国人の社長カルロス・ゴーンを迎えて、経営会議などでは英語で議論するということが、1999年当時大きな話題になった。しかし、日産の会社員が全員英語を話すようにするまでの徹底した方針ではなかった。その点、楽天の動きはかなり極端な例になるだろう。しかし、今までは例外的な動きだが、今後はこの傾向が広まるのもしれない。
これらの社内英語公用語化の動きに対して、批判的な声もある。たとえば、成田一の批判を聞いてみよう。成田(2011)は、「『外国人が交じる会議は英語にする』というのも実は問題がある。母語は言語中枢でほぼ自動処理されるが、英語だと日本人は発話の聴取・理解や発話構成をかなり意識的に行う。その際に脳の思考活動を担う作業記憶が占有され、論点を分析し対案を考える余裕がない」と脳科学の立場から批判している。要は「交渉という言葉の戦い」をするときに、母語を使わないで、はたして公平な戦いができるかという疑問提示である。
社内英語公用語化では、英語を中心に据えていることで、英語以外の言語の軽視につながるという観点からの批判もある。さらに、成田(2011)は次のように述べている。
『グローバル化=英語化』ではない。日本は生産と販売で中国への依存を高めているが、工場内の従業員に英語は通じない。中国の大学には日本語専攻の学生も多く、卒業生や日本留学経験者を要所に配すれば、文化・風習や就業意識が日本とは違う現場の労務管理が適切にできるし本社との連絡も問題ない。欧州、アジアでも、旧英米植民地以外では、人材も言語も現地化するのが現実的だ。中南米はスペイン語だ。英語力は海外業務に携わる社員に求めれば済む。現地での技術教育も通訳を介せば誤解がない。
ここで注目すべきは、多言語化への視点を示している点である。グローバル化を英語化と考えるならば、大きな問題であるが、多言語を理解するという方向に進む方向ならば、肯定的に考えるべきとの意見である。実はこの点は後述するCEFRの考えとも重なり、重要な視点である。日本の会社などでは、英語単一主義への傾斜が見られるが、その点が無反省になっているとの懸念がある。小学校で外国語活動=英語活動では、外国語とは英語のことであり、他の言語を話す人の姿が見えなくなる。小学校からそのような意識を植え付けていいのかという疑問も出てこよう。
また英語帝国主義論で有名な津田幸男は『英語を社内公用語にしてはいけない3つの理由』というそのものずばりのタイトルの本を書いて批判している。その理由として、①日本語・日本文化の軽視、②社会的格差・不平等の助長と固定化、③言語権の侵害を挙げている(津田2011)。このように有力な英語教育者たちから繰り返し社内公用語化に対して疑問の声が上がっているが、このことは常に念頭に置くべきであろう。
1.4 国際競争力と英語教育は結びつくか
国際競争力と英語教育がどのように結びつくかは不明である。国際競争力は、その国の科学技術が発達して産業が魅力的な製品を作り出すことで生まれてくる。国際競争力と直接的に結びつくのはその国全体の知的水準である。国全体の知的水準を上げるには、国民全員が英語の本をすらすら読めるようにするのではなくて、すぐれた翻訳書を刊行して学問の成果を国全体に広めるようにしたほうが効率的である。
日本の知的水準を高めるために、日本が必要とするのは翻訳書である。時間をかけて苦労して原書を読んだとしてみよう。しかし、翻訳を読めば、はるかに短い時間で、はるかに深く読み取れる。原文を読めば深く理解できるという人がいるが、それは大学の教室で学生達が1年ぐらいかけてゆっくり読む場合であり、普通の人にはそのような時間的余裕はあり得ない。それだけ、翻訳の効用は大きいものであり、その恩恵を知るべきである。
翻訳で世界の様々な文献が読めて、各分野において日本語で用が足せることの効用は再確認する必要がある。翻訳は日本をここまで発展させた原動力である。英語だけに頼っていたら、学術や文化がエリートの独占物になっただろう。つまりイングリッシュ・デバイドが固定化されたと思われる。しかし、現実の日本では、固定化は起こらずに、翻訳によって、外国の様々な学術や文化が一般の人にまで広まったのである。そのために、人々の間の知識の格差が少なくなり、それゆえに経済的な格差も少なくなった。これは日本の歴史において特筆すべき点である。
日本では日本語が十分に機能している。科学・技術・行政・立法・司法・マスコミ・教育・産業の各分野で日本語が十分に機能している。多くの外国語の文献が翻訳されており、日本語で読めることが多い。母語では専門的な分野をカバーできない発展途上国の人々と比較して、日本人の英語力の低さを嘆くことは誤解を招く恐れがある。
英米の旧植民地諸国では、英語教育が進んでいる、あるいは進んでいるように見えるのは、その国の言語が国家運営の機能を担うことができずに、学術の言語として機能できないので、仕方なしに英語に頼っているのである。そのために、英語教育に力を入れざるを得ないからである。彼らもできれば自国語でこれら全機能を行いたい。しかし、歴史的な制約からそれができないのである。これらの国々では、英語力の差によるエリート層と大衆の格差があり、いわゆるイングリッシュ・デバイドが存在するのである。そして、その格差を埋める手立てはなかなか見つからない。それは、英語力という貧しい人たちには入手できない手段を用いて情報の独占をはかり、それが富の独占に結びついているという構造が長い歴史の中で確立してしまい、今ではそれを変えることはなかなか難しいからである。英語教育とは国によっては、不公平な富の分配につながるのである。
これらのことを考えると、英語教育と国際競争力の結びつきは希薄と思われる。さらに、考えると、小学校の英語教育と国際競争力の結びつきはもっと希薄になる。小学生を将来の「英語が使える」企業戦士にしようとして今から鍛え始めるのは早すぎる。語学学習のように膨大な時間を費やすものは、その人の覚悟が必要であるが、それは、ある程度自分自身が分かる年頃にならねばならない。小学生では英語を専門的に勉強するという判断を下すのには早すぎる。中等教育以降からの勉強でも時間は十分に間にあうと考えられる。
このように産業界が提示する論理では、小学校で英語教育をおこなう論理とはなりえない。すると、小学校からの英語教育を支える論理は何であろうか。その答えは他に求めなければならない。
1.5 国際語としての英語
小学校からの英語教育を行う理由は、国際競争力の向上というような産業界しいては国家の要請で行われるべきではなくて、そのこと自体が子どもたちのためになるかどうかという視点から行うべきである。
教育的な視点とは学習者その人にどのようなメリットがあるかという点に注目することである。児童が成人してからも生涯ずっと国内にとどまる限りは、英語はほとんど不要である。しかし、児童たちが国外に行く可能性があるとなると話が異なってくる。児童たちが成人して海外で生きていくとしたら、コミュニケーションのための手段である国際語としての英語が必要となる。早期英語教育の必要性は「国際語としての英語」の中に見いだすことができる。
国際社会に目を向けるならば、英語の重要性は否定できない。日本社会は国際社会にがっちりと組み込まれているので、その関与は深まる一方である。例えば、現代では日常の交通手段になっている航空機だが、現在、航空業界では英語が標準語となっている。パイロットと管制官は英語でやりとりをする。たとえ、日本の国内便であっても英語で交信しなければならない。
もう一つの例を挙げてみよう。学術論文だが、近年、次第に国際化しており、とりわけ理系の学術論文は英語で書くことが要求されつつある。国外の研究者の存在を意識した論文では、英語で書くことが常識になってきている。様々な国際会議でも英語での意見交換が普通になってきており、それ以外の言語が使われることは稀になってきている。
インターネットで代表される電子機器の発達だが、これは世界を一つの大きなグローバルヴィジレッジ(地球村)化している。そこでは、英語が共通語として使われる可能性が出てきた。それは、英語が使えないと、そのヴィレッジで仲間はずれになる可能性であると言ってもいいだろう。電子機器の発達は日進月歩であり、もしかするとその発達は長期的には英語にとって不利に働くことがあるかもしれないが、とりあえず、現段階では英語を普及させる原因となっている。
世界全体を1つの大きな言語社会とするならば、上位語として英語が位置して、その下に各言語が並んでいるという構造がある。世界の様々な言語の話者の国際間の交流は、共通言語である英語を媒介にして段々行われるようになった。そして、児童たちの中には、将来は国内だけにとどまらないで、国際的に活躍する者もいるだろう。学校教育の場では、将来は「国際的に活躍するかもしれない」という児童の持つ潜在的な可能性に注目すべきである。
ただ、その場合は、その子どもが必要とする外国語は国際共通語としての性質を持つ英語でないかもしれない。もっとマイナーな言語かもしれない。それゆえに、必要なのは、どの言語を学ぶときにも応用がきくような普遍的な言語知識や、言語を学ぼうとする積極的な態度、あるいは自立的に言語を学んでいく学習方略である。小学校では、どの方向にも伸びることの出来る土台を提供すべきである。それが語学の力を伸ばす素地を養うことでもある。
(続く)