2.言語習得の視点から
2.1 子どもの吸収力
子どもの頭脳は何でも吸収する大きなスポンジのようなものである。さまざまなことを急速に吸収して、次第に大きくふくれあがっていく。大人になると吸収する力が衰えて、次第にゆるやかになり、やがては止まってしまう。これは、我々一般が描く子どもの成長の姿である。
吸収する力の強い子ども時代に、いろいろなことを吸収させたいと願うのは、どこの親でも同じである。自分の子どもの持つ様々な可能性ができるだけ開花してほしいと願い、その一つとして、英語が話せるようになってほしいと願うのである。しかし、早くから始めれば英語に流暢になる、とは簡単に言いきれない。
臨界期という言葉がある。言語に関しては、ある時期を逃すともう言語習得が不可能になる期間を指す。19世紀初めに、フランスでは、アヴェロンの野生児と呼ばれる少年が評判になった。幼くして親に捨てられて、人間と接する機会がないまま成長したが、12歳頃にふとしたことで発見されて人間社会に復帰したという。しかし、周りの大人たちが言語を熱心に教えても、発声できるのは数語であり、結局は通常の意味での「話し」はできなかったという。
この少年の逸話が教えることは、生まれてから10年ほどの間は言語習得にとって大切な時期であり、この期間を逃すと、もう言語習得の機会はないということである。幼児期と同じく、小学校の時期も重要な時期である。この時期の子どもの知的発達は著しい。言語能力もそうであり、大人が目を見はるほどの発達である。語彙の増加だけでなくて、いわゆる身の回りのことを述べる言語から知的・抽象的なことを語る言語へと内容のレベルが高まるのである。このように母語の習得には比較的短い時期に集中的に行われる。
しかし、この臨界期の概念がそのまま外国語学習にあてはまるのではない。すでに母語を習得していて、言語学習の基盤ができている者にとっては事情は異なる。外国語として言語を学ぶときは、臨界期という概念はそれほど厳格に当てはまらない。中学生になってから外国語を始めて、達人となった例はたくさんある。あるいは、30歳、40歳から始めても、かなり上達する人がいる。母語を学ぶプロセスと外国語を学ぶプロセスはいくつかの点では異なるので、外国語の学習は、早ければ早いほどいいとは簡単に言い切れない。たしかに母語の学習には臨界期という概念が通用するが、外国語の学習には、臨界期という概念よりも、もう少しゆるやかな敏感期という概念が相応しいとも考えられる。
2.2 生活言語能力と学習言語能力
言語能力を、生活言語能力(BICS)と学習言語能力(CALP)(4)に分けると言語習得のプロセスが分かりやすくなる。生活言語能力とは、日常生活を営むときに、他人とコミュニケーションする能力のことである。小学校に上がるまでには、子どもは身の回りのことに関してだいたいの意思伝達が可能になってくる。子どもは生活言語能力を6歳ぐらいまでには、ある程度完成させる。一方の学習言語能力は、知的抽象的な概念を操作する言語能力であり、学校などで訓練により学ぶ言語能力である。子どもは、大体12歳ぐらいまでに学習言語能力の基礎を身につける。小学校時代は、母語に関しては、生活言語から学習言語へと発達する時期なのである。
二言語相互依存説とは、カミンズ(J. Cummins)の唱えた理論で、二つの言語を学ぶ際には、学習者の中では、これらの二言語は相互に共有している部分があるという仮説である。それによれば、二つの言語の表層の部分(生活言語能力)は異なって見えるが、基底の部分(=学習言語能力)は相互に重なっている。基底部分は、目立たないが、きわめて大きくて、ちょうど氷山の海面下の部分に似ているので氷山説とも言う。
言語の知的抽象的な部分(=学習言語能力)は、言語が異なっても、共通する箇所がたくさんある。ある言語で学習言語能力を身につけたならば、他の言語の学習言語能力へ転移できる。日本語で分数や小数点の内容をすでに理解しているならば、分数や小数点を説明した英文は容易に理解できるのである。
知的抽象的概念は各言語が共有することができ、母語における知的抽象能力が外国語の学習を通してより深まる面がある。その意味で、ある程度成長して母語の能力が学習言語能力まで達してから、外国語を学習するのは、理にかなったことなのである。
2.3 国語と英語の連携
学術誌『英語教育』の2006年5月号では、「英語力と国語力をともにそだてるには――」という特集を組んでいる。従来の言語教育では、日本語と英語を別々に伸ばしていくという考えであるのに対して、両者を一緒に伸ばそうとする考えである。カミンズの理論を踏まえて、山田(2006:10)は「この基底能力は...母語1つだけでも開発できるが、それに2つめの言語が加わると立体的になる」と述べている。このように、基底能力(=学習言語能力)のレベルで立体的な能力が開発され複眼的な意識を持たせるようにすることは、英語教育の大きな目標の1つである。この意識は将来他の学問をする場合でも転用がきくであろう。
小学校は、子どもが思考する力を育てる重要な時期である。この時期の子どもたちは、言葉そのものの仕組みに関心を持つようになる。日本語と連動させながら、英語やその他の外国語を教えることは意味がある。文法には主語という概念があり、英語の文には必ず主語が現れるが、日本語の文では現れない場合がある、などを教えることによって言語自体への理解が深まる。メタ言語的な知識を持たせることは大切なことである。
言葉遊び、しりとり、韻を踏むこと、なぞなぞなどは子どもの言語に対する感受性を高める。また、名前の呼び方なども注目させると面白い。日本語では姓名の順だが、英語では名姓の順である。これは何故だろうか、といった疑問をいだかせることは大切である。高学年にもなると、そんな疑問を出発点として、西洋社会と日本社会の違いのような点にまで関心が進んでいく。
その意味で、現在小学校では、外国語活動は音声中心で教えるべきとなっているが、ある程度はメタ言語的な知識を提供してもいいのではないか。またアルファベットなどの文字の学習も負担にならない範囲で行えば、むしろ知的好奇心を刺激するものとなろう。読解や文法構造に関して、深入りは避けるべきだが、適切な範囲内で行ったほうが児童の知的発達を促進する。
2.4 バランスのとれたバイリンガル
学習言語能力を身につけるには、かなりの努力が必要となる。一般に、学校教育を通して、膨大な時間と労力をかけて習得する。12歳ぐらいまでには、母語によって知的抽象的な概念を理解する能力の基礎が身につくのである。しかし、12歳以前に膨大な量の外国語をインプットすると、母語による知的な言語発達を阻害する恐れがある。そうなると学習言語の能力に関して、両言語ともに生半可な知識しか習得できなくなり、知的抽象的な思考が苦手になる場合がある。一つの言語の学習言語能力は他の言語の学習言語能力に転移すると述べたが、それは、まず一つの学習言語能力が確立してからである。まだ母語も外国語のどちらも確立していない場合は該当しない。
そのことを学問的な言い方をすれば、母語の知的な能力を伸ばしてから、外国語を学習すれば加算的バイリンガリズム(両方の言語能力が互いにプラスに作用する)になる可能性が高まる。しかし、母語による知的発達をする前に、多量の外国語をインプットすると減算的バイリンガリズム(両方の言語能力が互いに否定的に作用する)になる恐れが生じるのである。
小学校の段階では、母語である日本語の学習が中心となる。英語の学習がそれを妨げるのではなくて、促進するように行われるべきである。それには、国語と英語の連携が考えられるし、国際理解に軸足をおいた教育や、コミュニケーション能力の素地を養うことに徹した教育も考えられる。そのような教育と、英語のインプット量とはどのように関係するのか。
(続く)