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4.小学校での英語教育の目標は何であるか(学習指導要領を参考に)

4.1 英語教育の究極的な目的

小学校の英語教育は、小学校という狭い範囲だけで考えるべきではない。まず国全体の言語教育の目的が決まらないといけない。そして、その目的を踏まえてさまざまな教育分野での目標が定まっていく。そのために、日本人にはどのような語学教育が必要かという点で国民的な合意ができている必要がある。

また、言語教育という高次の次元での政策ならば、国語教育や他の外国語教育とのバランスが必要である。世界のいくつかの国では、文系の科目は国語で、理系の科目は英語で学ぼうとしているように見える。日本でも時々産業界を中心に、理系の科目は英語で学ぶことが効率的だとの声が時々聞かれる。しかし、これは第1章でのべたように賢い方法とは考えられない。大学教育などのある一定のレベルに達した段階ならば、そのように教授言語を分けることも実験的にはあり得るが、初等教育、中等教育のレベルでのそのような試みは避けるべきだろう。

4.2 国際理解教育か言語教育か

小学校の英語教育は、「国際理解教育」であるべきか、それとも英語力の伸長をめざす「言語教育」であるべきか、という議論が行われてきた。2002年から施行された学習指導要領(以下、旧学習指導要領と称する)では、英語活動は「国際理解教育に関する学習の一環」として位置づけられていた。

その中に、「総合的な学習の時間に、例えば国際理解などの学習活動を行う」とあった。さらに、「国際理解に関する学習の一環としての外国語会話等を行うときは、学校の実態等に応じ、児童が外国語に触れたり、外国の生活や文化などに慣れ親しんだりするなど小学校段階にふさわしい体験的な学習が行われるようにすること」とあった。

つまり、外国の言語・生活・文化などに「触れたり、慣れ親しんだりする」ことが主眼なのである。小学生の時から「外国の生活や文化に慣れ親しむ」ことによって、偏見を持たない行動、心の広い態度へとつながることが期待されている。異民族に対して我々はステレオタイプのイメージや偏見を持ちがちだ。しかし、慣れ親しむことで、偏見がなくなることは多い。その意味で、総合的な学習の時間を利用して異文化に触れることは、すぐれた試みである。

しかし、文科省の本音はどうやら言語教育であって、旧学習指導要領の文言は、そこへ至るための布石、であるという見方があった。文科省は最終的には英語教育を正式の教科として格上げしたいようであるが、そうすれば反発も予想されるから、とりあえず、総合的な学習の時間に、児童に対して英語を触れる機会を与えておき、将来の英語の教科導入への布石にしようとしたと言われていた。2011年から施行されている学習指導要領(以下、現学習指導要領と称する)では、その点はどのように異なったであろうか。

 現学習指導要領の「外国語活動においては、英語を取り扱うことを原則とすること」との文言にも注目したい。「原則として」という文言がついているが、「外国語=英語」という等式が成立している。これに対して、外国語教育とは英語教育に限るべきではなくて、さまざまな言語を提供すべきとの考えがある。とりわけ国際理解教育の立場からは、様々な言語や文化に触れることが望まれる。「外国語活動」の時間を真の意味での「外国語活動」の時間にすることが望まれる。

外国語活動にあまり制限が加えられなくて、教員の自由な考えで行ってきた時代を懐かしいと考える声もある。それは「活動」と位置づけられていたゆえに自由だったのである。逆に言うと活動となっているがゆえに、教員側は熱心に取り扱わない、まだ教科ではないので真剣さを欠けるものがあった点は否定できない。とにかく、教科化されていない事によるメリットがいくつかある。次はある匿名の小学校の先生の言葉がある。それを紹介しておきたい。

私は、公立小学校で5年間英語の支援協力員として英語を教えたこがあります。そのときは、5,6年生の英語必修化以前の時期だったのでまだ「外国語活動」といわれ総合的学習の一環でした。学校にもよりますが、当時は『Hi Friends!』 などもなかったので、自由に授業案を組み立てることができ、私はどちらかというと国際理解のテーマを中心に、英語を使った授業をしていました。小学校では、中途半端な英語を教えるならば国際理解色の濃い授業内容にした方がむしろ小学生には楽しめる内容になると思います。回数も週1回でなくても十分です。

このように国際理解に重点をおいて教えることができたのである。教科化で細かくカリキュラムが定まると窮屈と感じる教員がいる。また、逆にテキストやカリキュラムがあった方が指針となり役立つとの考えもある。結論的に言えば、どちらも極端な考えは避けるべきであり、ある程度の大枠の中での、自由な授業が回答となるのであろう。

なお、国際理解と多言語主義だが、諸外国の例をみると、英語以外の言語を教育の場で必修化している例が多い。EUでは、母語+2つの言語(母語に加えてEUの公用語を2つ)を学ぶように奨励している。日本のように英語のみに集中していく態度は例外的であると有識者からよく指摘される。国際理解教育を意識するならば、英語以外の言語を無視することはできない。この点で、欧州諸国の例は参考になる。

繰り返すが、旧学習指導要領が持っていた「国際理解教育の一環として」という性格は、ある程度は現学習指導要領にも受け継がれているが、全体として、言語教育という側面が強まったのは間違いない。

4.3 教養か実用という問いかけ

2014年10月7日に実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議(第1回)が行われた。そこでは、経営共創基盤CEOの冨山和彦氏より、グローバル人材を育てる「G(グローバル)型大学」と、職業訓練校的な教育をほどこす「L(ローカル)型大学」の提案が出される。L型大学では、従来の英文学部は、観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力を学ぶ学部に変化すべきとしている、とかなり大胆な提言でかなりの注目を浴びた。

大学の英語教育は教養主義であるべきか実用主義であるべきかという問いかけは何度も繰り返し出てきたテーマである。この富山氏の提案はその最新版である。同氏は大学をエリートを育てるグローバル型大学と一般大衆へ実技を教えるいわば職業訓練校・専門学校的な教育を提供するローカル型大学に分けるのである。ただ、この2分割の提案は大学教育の場では、意味があるとしても、小学校教育の場ではこの考えは取り入れるべきではない。すなわち、小学校の段階では、教養英語か実用英語かという問いかけは妥当な問いかけではない。将来どの方向にも向かえるような能力をはぐくむ、その意味では普遍的な能力、素質と言い換えてもいいだろう、を作り上げることが必要なのである。

4.4 学習指導要領と多文化主義

学習指導要領における多文化主義はどのように考えられるのか、中学校も高校の学習指導要領も多言語主義の観点からの説明はない。この点でCEFRがヨーロッパの多言語状態からインスピレーションを得たことと対比的である。言語や人種に対しての偏見はどのように取り扱うのか。これまでは、日本人の子どもたちが西洋の言語には肯定的なイメージを抱き、アジアアフリカの言語には否定的なイメージを抱くのは教育の効果であるとも考えられる。この点で、1947年の学習指導要領で述べられている目標は、森住(2012:6)によれば、以下のようである。

①英語で考える習慣をつけること。②英語の聴き方と話し方を学ぶこと。③英語の読み方と書き方を学ぶこと。④英語を話す国民について知ること、特に、その風俗習慣および日常生活について知ること。(①については「英語を学ぶということは、できるだけ多くの英語の単語を暗記することではなくて、われわれの心を、生まれてこのかた英語を話す人々の心と同じように働かせること」とある。

 森住は、英語教育の目標が「英語を話す人々と同じように働かせること」という文言を指摘して、当時はこのような考えが一般的であったと述べている。この指導要領の目的は、英語教育を通して、われわれを「英米人」に仕立て上げることになる。このような考えは、1951年の指導要領の改訂以降はなくなり、現代の指導要領に至っている。しかし、根底ではまだかなり残っていると考えられよう。現在の高校の学習指導要領では、英語による授業をかなり強調している。それは英語を話す人々と同じように頭を機能させることに繋がり、1947年の学習指導要領への先祖返りであるとも言えよう。

もちろん、近年の教科書では文化的多様性をできるだけ反映させるようになっていて、特に三省堂のCrownシリーズなどは、その傾向が顕著である。ただ、他の教科書などは、1947年の指導要領の思想がある程度は残っているのではという懸念をいだくのである。

4.5 現学習指導要領の目標

小学校の現学習指導要領の第4章は外国語活動について述べてある。その「目標」に関しては、「外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、コミュニケーション能力の素地を養う」とある。キーワードは、「体験的」、「積極的な態度」、「コミュニケーション能力」、「素地」、「音声」などである。キーワードからも、旧学習指導要領と比べて言語教育への傾斜が強まったことが読み取れる。

まず素地であるが、これに関しては色々な意見があるだろう。「素地」の解釈は、簡単な英会話が出来るとする広い意味から外国人を怖がらないなどの狭い意味までありそうであるが、要は英語に関心を持つようにさせることである。

なお、ここまでの文言には、国際理解教育への直接的な言及はないのだが、次の「内容」の箇所に「日本と外国との生活、習慣、行事などの違いを知り、多様なものの見方や考え方があることに気付くこと」、「異なる文化をもつ人々との交流等を体験し、文化等に対する理解を深めること」とあるので、やはり国際理解教育は依然として重要な目標であることが分かる。

旧学習指導要領によって導入された英語活動は、その後の10年間ほど試行錯誤が続いてきた。また、その10年間は、学界の有力者たちから、小学校における英語教育の不要論が強く主張されてきた。また一般にも、小学校の段階では、まず日本語をしっかりと理解してから英語教育へ進むべきであるという意見も根強かった。

それらの声を意識して、現在の学習指導要領の施行となったのである。「コミュニケーション能力の素地を養う」という表現は、現学習指導要領の執筆者たちが世論を意識しながら慎重に選んだものと思われる。

4.6 素地と基礎(中学校の学習指導要領との比較から)

現学習指導要領の「素地を養う」ということだが、どのようなことなのか。中学校の学習指導要領もあわせて読むことで、素地を養うということの意味がつかみやすくなる。中学校の指導要領では、外国語を学ぶ目標は、「外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う」(下線は筆者)とある。小学校では、コミュニケーション能力の「素地」を養い、中学校では、「基礎」を養う、ということである(なお、高等学校の学習指導要領では、この部分は「実践的コミュニケーション能力を養う」となっている)。「素地」と「基礎」の違いは、漠然としているが、要は体力作りと訓練の開始との違いであろうか。

4.7 人間教育としての小学校の英語教育

英語教育は他教科同様に人間教育である。それは単に技術的なことを教えることではない。学校で行うことはそれ自体が人間教育に他ならないと考えられる。実は、全教科全活動が、技術と陶冶の両方に目配りをしている。人として生きていく上で大切なこととはなんであるか、そこを外しての授業はあり得ない。

日本人が言葉を介してのコミュニケーションが下手なのは昔から言われている。自力解決、全員解決(話し合い)を育てて、友だちの意見を聞きながら、なるほど、そういう考え方があったのか、と多面的に物事を見る、そうすることで社会に出たとき、自分と違う人でも違和感なく受け入れる人間になることが狙えるのである。自分の考えを持つ、言う、受け入れる、心の豊かさを育てる、という点では、どの教科も特別活動も同じ目的を持っている。それらと外国語活動を別にしてしまうべきではない。やはり外国語活動は人間教育の一つであり、それと結びつくような活動が望まれる。

4.8 小学校と中学校の連携と接続

小学校と中学校がばらばらに英語教育を行っていてはいけないとよく言われる。互いが有機的に結びつくように、全体の中で、構成されなければいけない。つまり、小学校や中学校の英語教育という単体で捉えるのではなくて、言語教育あるいは英語教育という大きなシステムの中で、どのように機能すべきか考えるべきである。ところが、小中の教員どうしは互いに相手が何をしているか知らない、あるいは誤解がある。まず両者の間で情報の共有化が必要であるようだ。

今までは、英語教育は中学校から始めるのであるから、中学校に入ってくる生徒の英語力は実質ゼロと考えて、カリキュラムが作られていた。しかし、小学校でも英語教育が始まるとなると、事情は異なってくる。小中が連携しなればならないが、どのように連携をしたらいいのか、一方は素地を養い、一方は基礎を養うという棲み分けがされている。この棲み分けについての了解が小中の教員間に必要である。
アンケート調査(山本:2011)では、「小学校から英語活動を体験してきた生徒の方が 積極的な態度を持ち続ける」と報告している。技能的に大きな成果がなかったとしても、少なくとも、積極的な態度を取ることができるようになるならば、それは小学校での英語活動の大きな成果であり、素地が養われたことになる。

近年は連携がよく提唱される。それは今まで各教育現場が自分のことにかかりきりで教育を行ってきて、他の分野での教育に目が向く度合いが少なかったからであろう。今では、小中の連携、中高の連携、高大の連携などが叫ばれている。また、国は、小中高大の一貫した連携を考えるべきであろう。この場合、大学入試の影響の強さを考慮すべきである。教育システムの全体がいかに有名大学に入るかの目的に合うように現在は構成されており、その点を是正・正常化していくことが必要である。それには小学校からの英語教育から次第に是正していくこと、小学校からの英語教育のあり方を考えていくことで、全体の英語教育のあり方への反省へとつながるのである。

(続く)

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