多読と精読は互いに補い合う。
精読と多読は対比されて考えられるが、基本的には双方が互いに補うような関係にある。
ところで、初心者に多読を勧めてもそれはあまり意味がない。初心者は精読に集中すべきである。いや、それ以外に方法はないであろう。
多読は楽しくなければならない。
多読が意味を持つのは、ある程度英語力がついてからである。中学の3年ぐらいから可能になってくる。そして、多読の意義は英語を読む楽しみを知るためである。ただ、それだけであると思う。もちろん、人によっては、長文を読解する力を養うとか、知らない語句と出会っても類推する力を身に付けるためとか、という人もいる。しかし、私見では、精読の意味は、英語の本を読む楽しみを覚えるためである。それが第一番である。
であるから、強制力が入るとたちどころに本を読む楽しみが減る。教師が学生に夏休みの宿題に本を与えると、ほとんどの学生は苦痛に感じてしまう。多読の楽しみを知ることから遠ざかってしまう。であるから、夏休みの宿題には教師は数種類の本を示して、学生に選ばせるのだ。学生は強制であっても、自分が選んだ本という意識が高まり、その本に対する抵抗は減る。
学生時代に、試験準備に味気ない教科書を覚えているときに、ふと手にした小説が面白くて、試験勉強を忘れて読みふけったという記憶がある人もいよう。英語の本の多読を通して英語に対してそのような経験をすることができれば素晴らしいと思う。
英語の本を読む楽しみを覚えた人は英語が一生の楽しみになる。アマゾンで原書を注文して、毎日楽しみで読めるようになると、それは英語力が非常に伸びる。もちろん、急にそのレベルに達するわけにはいかないので、学習者は現在のレベルよりもほんの少し高いレベルの面白い本を読みふけることを繰り返すことで力がついてくるのだ。
英語教師の仕事
英語の教師の仕事は学習者に多読の楽しみを教えることである。それには、学習者のレベルよりも、ほんの少しだけ高いレベルの本を紹介することである。さらに教師はいくつものレパートリーを持っていて、学習者がこの分野に興味があると相談に来れば、即座にこの本がいいと勧められるだけの知識を持っていることが望ましい。さらには、それだけのストックが学校の図書館にあればいい。
Krashen の i + 1 のようだが、要は馬の先にニンジンをぶら下げると馬が必死になって走っていくように、多読とはニンジンに似ていると思う。
精読の意味
さて、もう一方の精読はどのような意味を持っているのか。それは、英語を正確に読み取ることである。現在は、英語教育界では、コミュニケーション中心と言われている。しかし、それは精読をおろそかにすることを意味するのではない。アメリカの科学技術を導入する場合だが、マニュアルは英語で書いてある。そのマニュアルをきちんと正確に読めないと機械を動かすことはできない。
会議の場では、口頭でのコミュニケーションで、何となくあいまいな理解に終わることがあったとしても、議事録などはきちんと書かれていなければならない。その議事録を読み書きする力を身に付けることは精読を通してできあがると思う。
たとえて言えば、会議と似ている。最初に会話でブレーンストーミングをしながら意見を出し合う。そのときは、たくさんアイデアを自由に出すのが望ましい(それは多読に似ている)。そして、それをきっちりと議事録や報告書にまとめる行為は、精読に似ていると思う。このように、精読と多読は互いに補いあう関係にあるのだ。
追記
2017/02/07)
精読と多読をどのように組み合わせるか、試験で学生に質問してみた。すると、次のような解答があった。私の考えとは精読と多読の役割が反対になっているのだが、それも一つの考えかとも思う。以下にその解答を示す。
「私は多読を受業内に行い、精読を宿題として取り入れることが良いと考える。受業では、一人一人の子どもたちの能力より易しめの興味の持てる読み物を用意する。辞書を使わずに読み、英語が分からなくてもだいたいの内容をつかめるようにする。好きな本やお話であれば、生徒も意欲的に取り組めるし、楽しくなるだろう。そして、多読した中で分からない単語や文法が出てきた場合もあると思うので、家庭での学習で辞書を使って調べたり、役を確認するなど精読を行う。このようにして、多読と精読を行うことにより、楽しみながらも学習することができる。」
以上が解答の内容である。私なりに解釈すると、教師の役割は子どもたちに英語を好きになってもらうこと、英語の楽しさを教えることだ。楽しくなれば、楽しくなってもらうのは、教室の場である。ということか。英語が好きになれば、文法などの勉強は自分から進んで行うようになるだろうという考えだと思う。たしかに、これも一つの考えではある。