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外国語の教授法にはその理論背景として心理学がある。ここでは、その代表的な心理学として、行動主義心理学、認知主義心理学、人間学的心理学の3つを取り上げてみたい。なお、この記述は、米山・佐野著『新しい英語科教育法』(大修館書店)を参考にしている。
行動主義心理学(Behaviorism)
古典的条件付け
条件反射という心理学の用語がある。犬を実験にしてパブロフ(I. P. Pavlov)は刺激と反射の関係を調べた。パブロフは犬に食事を与える前にべルの音を聞かせ(条件刺激)、音を聞いたら唾液を分泌する(条件反射)ように訓練した。一定の刺激に対して、一定の反応が生ずるよう習慣を形成させた。そして「永続的な変容」が成立したら、学習が成立したと考えたのである。パブロフの研究 は、それまで哲学的な抽象論や体験からの印象の域を出なかった学習理論に、 はじめて科学的方法論を適応した点で画期的なものであった。
パブロフの理論によれば、人間の学習もまた全て、刺激—反応 の習慣形成であり、複雑な事項はより基礎的な刺激—反応の連鎖の組み合せから成立すると考えられる。さらには、ことばを媒 体とした高次条件づけによるものだと説明されるのであった。なお、高次条件づけというのは、日本人ならば、「梅干し」と聞いただけで、実際には梅干しが目の前になくとも唾液を分泌するように、ことば等のシンボルによる条件づけの働きを示す。
この派の主張は次のようにまとめられる。研究が科学的であるには、客観的に測定できる事象だけを調査対象にすべきである。したがって人間心理の研究も、思考などは対象とせずに、もっぱら外的に観察できる行動に限定すべきだ、と主張したのである。この学派は「行動主義心理学派」と呼ばれた。パブロフの理論は次に紹介するスキナー(B. F. Skinner)の説と区別して、「古典的条件づけ」(Classical Conditioning)と名づけられている。
なお、刺激が与えられれば反応が形成されることは脳科学の視点からも研究されている。神経細胞(ニューロン)間の結合が刺激を受けることで、シナプスの伝達効率が増強されること、逆に刺激を長期間受けないとシナプスの伝達効率は減退することは、ヘッブの法則と言われてる。
オペラント条件付け
スキナーは、行動主義心理学派に属するが、スキナーの理論はパブロフと異なる点がある。スキナーの説は「オペラント条件づけ」(Operant Conditioning)あるいは「道具的条件づけ」(Instrumental Conditioning)と呼ばれている。学習する側の主体性の評価が、古典的条件づけとオペラント条件付けでは異なる。オペラント条件付けでは、学習者の主体性がかなり大きな役割を果たすと考えられている。
古典的条件づけでは、学習者は常に受身で、与えられた刺激に対して反応し、正しい反応を示した場合に報酬を得ること になる。外側からの働きかけがあった場合にしか、学習は成立しない。 ですから犬に「おすわり」を教える場合は、「おすわり」をしたら「えさ」をあげるという行為を繰り返すことで、習慣形成を生じさせる。それが古典的条件づけなのである。
それに対して、人間の赤ちゃんの場合は異なる。赤ちゃんは主体的に様々なことを試みる。たとえば、試行錯誤しながらスプーンの握り方の学習すること姿を見てみよう。正しくスプーンを握った時には、大人から激励やごちそうが手に入る。これらの報酬がより強力な学習の促進となる。報酬が刺激となり、さらに次の反応を生み練習が積み重ねられる。この様にして学習が成立する。
スキナーはこの点に注目して、学習の成立に必須の要因は、一定の反応を生じさ せるために一定の刺激を与えることではなく、むしろ反応の結果に対する励ましや報酬などの強化であり、どのような反応に対してどのような強化を与えるかによって、好ましい行動を習慣化し学習を成立させることができると考えた。
両者の違いと類似点
以上の2つの考え方では、スキナーの理論の方が、人問の学習を説明するにはより妥当であると考えられている。外からの直接的な働きかけがなくとも、人間は周囲に自ら働きかけ、その働きかけの結果から得られる体験から学習してゆく。 パブロフの理論では、この自らの欲求にもとづく意志的な学習は説明できない。
しかし両論の差異は,いわば1つの見解の強調点の差と見ることも可能で ある。すなわち、刺激→反応→強化(刺激)→反応 の連鎖のなかで、パブロフは刺激を、スキナーは強化を重視しただけの違いと 考えることができる。つまり両者は、人間の学習を外に現れた行動で判断し、その行動を刺激なり強化なりの条件づけによってコントロールできるとした点で似ている。したがって行動主義心理学では、「教える」 という行為は、望ましい行動が習慣化されるように学習者を条件づけることだと言える。
たとえば、友人の住所を学習する場合を考えてみる。まず地図を見て行き先を覚える。短期間の記憶(short- term memory)にとどめることは容易である。しかし、学習は「永続的な行動の変容」なのであるから、長期間の記憶(long-term memory) にとどまらない限り、この学習は成立したとは言えない。再度訪問するときに、首尾良く到着できれば、その成功が強化の作用をして一層の定着を助ける。また、忘れた場合には、くり返し地図で 調べることによって覚え込むことができる。これらは行動主義心理学の学習理論に合致する。
このように学習とは刺激に対して反応(強化)することであるから、外国語学習は当該の言語構造を細部に分解して、その一つ一つを自動的習慣化するまで繰り返し練習することで、やがて全体が連合の鎖で結ばれた、まったく新しい言語習慣を形成することになる。
行動主義心理学の限界
しかし、人間の学習は、条件付けによる習慣形成だけでは説明できない面がある。相手の住所を覚えるというごく単純な学 習にも、まだ別の側面がある。たとえば電話番号が、37-2525というタクシ—会社の番号だったとする。この番号を「37-2525(皆ニコニコ)タクシ一」と文章化して暗記することができる。すると番号だけの場合より、長期的記憶への定着率は飛躍的に増大する。このような工夫を人間は行う。
また文章化できない場合でも、それが恋人の住所であれば、意図的な努力をしなくとも、記憶はずっと容易になる。本来意味のない電話番号に意味を付加し、記憶しなければならない量を増大させながらも学習の成功率が高まる。後者では、恋人への気持ちという情緒的要因が学習を助長している。人間の学習のこうした側面は、習慣形成理論では説明することは難しい。
認知主義心理学(Cognitive Psychology)
認知心理学にも、いろいろな派があるが、英語教授法を理解する上で重要である、オ—ズベル(D. P. Ausubel) とブルーナ—(J, S. Bruner)の説を取りあげる。
オーズベルの有意味受容学習
オーズベルの理論は,「有意味受容学習」と呼ばれている。彼は「本来意味のある(potentially meaningful)学習内容が、 学習者のすでに知っている認知構造に取り入れられたり関連づけられたりすれば、それは学習者にとって有意味なものになる。意味の分かった学習ならば記憶負担も少なく、以後の関連ある内容の学習や問題解決に応用がきく」と主張している。つまり、新しい情報を既知の認知構造の中に、意味のある過程を経て組み入れることができて、はじめて学習が成立するとするのである。
当然「教える」ことの重要な作業は、学習者の認知構造に取り入れられやすいように、あるいは、それが再組織化されやすい形で、情報を整理して提供することになる。オ—ズベル自身が外国語学習にこの理論を適応 して具体的な提案を行っている。そこでは、演繹的な文法説明、意味のあるドリル、理解を増進するための母語の積極的な利用、文字の活用、スピードを落として理解を重視した聴解力訓練など、人間の認知能力を重視し意味を持たせた学習の重要性が強調されている。
なお「意味を持つ」とはどのようなことかに関して、2種類あると言われている。1つは、学習者の中に新しい情報に関連づけることができる認知構造がすでに存在している場合である。分数を教える仕事がこれに相当する。整数とか小数とかの概念に結びつけることによっ て、分数の学習は意味を持つことになる。もう一つは、学習者が学習自体に意味づけをする場合です。意味を作り出すと言ってもよい。歴史の年表を文章化して暗記することなどもこれに含まれる。「1192年、鎌倉幕府成立」は、「イイクニつくろう鎌倉幕府」という風に覚えたりする。本来は、対応する認知構造がない事項に対して、文章化して自分に意味のあるものに変えて、長期的な記憶に定着させるのである。
ブル—ナ—の「発見学習」
このように学習者に意味を発見する能力があるならば、もっと積極的にこの能力を活用すべきだとするのが、ブル—ナ—の「発見学習」である。ブル—ナ—もオーズベル同様に,学習者の認知構造を重視するのですが、オーズベルが学習内容を整理した最終的な形で与えようとするのに対して、ブル—ナ—は、そうした学習内容を含む場面を設定することによって、学習者自身に仮説の考案や検討を行わせて、学習者が発見学習できるようにするのである。
解説が中心の言語学習では、例えば、教員が能動態と受動態の構文の書き換えの説明をしている間、学習者は内容も分からぬまま、聞き手の役を押しつけられてしまう。それに対して、ブルーナーの提唱するのは、学習者自身が、与えられた資料から仮説を作り、能動態と受動態の構文の書き換えのル一ルを発見してゆくことによってこそ、より意味のある学習が生じ、学習事項が有意味な構造の一部に組み入れられると主張した(この場合は、教員は学習者に対して発見学習がスムーズに成立するような言語材料を提示する必要がある)。とにかく、認知力を活用して学習を成立させようとした点でオー ズベルと考え方が一致しているが、方法論が異なると言える。
意味のある学習によって、長期的な記憶に定着した事項でも、忘却されることがある。たとえば母語の場合を考えれば自明なように、われわれは文法の細部や、多数の語義を個別に記憶しているわけではなく、むしろ意識にはない、抽象的な概念として頭脳に内蔵している。言語構造のル—ルは相互に関連し、かつ抽象的である。これは人間の頭脳が多数の細かな項目を記憶するよりも、それらを1つの適応範囲の広い抽象的な概念に統括する働きを持ってい ることと関連する。このように抽象化されて定着した言語知識は、内在化された(internalized)知識と呼ばれるが、個々の項目の細部を忘却することによって初めて、抽象化や内在化が生ずるのであるから、この意味では忘却も言語能力の伸長に貢献していると言えよう。
人間の本来的な能力である思考力
このように認知主義心理学は、行動主義心理学の提案する「刺激一反応一強化」のパターンでは説 明できない、人間の本来的な能力である思考力を重視し,人問の学習につい てより深い洞察を与えてくれた。しかしこれで学習の全体像が明らかに なったわけではない。この派の「思考力」を重視する態度は、思考自体が情緒的要因に左右される事実を無視することになりがちだったからである。
知識や知的技能の教育を主に考え、学習者の人格全体への視点が欠落していたと考えられる。認知派の主知主義に対して、人間は本来情緒的存在だと主張したのは、ロジャーズ(C. Rogers)である。彼はカウンセリングの来談者中心の考えを通常の授業に適用して、徹底した「学習者中心学習」のモデルを提案している。その理論的根拠は、人間学的心理学にある。
人間学的心理学(Humanistic Psychology)
この考えは、個別的な学問領域が進化するにつれて、対象である人間が断片化され、本質が見失われてしまう傾向に対して、人間を統一的全体として とらえ直そうとする姿勢が基本にある。言語学習に関しては、マズロー やロジャーズの貢献が知られている。人間が言語を学ぶのは、道具としての言語が生活に必要であるばかりはなくて、自分と他人との連帯感を確認するためであると考える。そのような側面からの考察を行っている。
ロジャーズの理論
ロジャーズの理論の根本は、人間はみな一人一人が異なった自己概念(self- concept) と現状認識(personal sense of reality)を持っており、それ に基づいて行動しているという考えである。それゆえに、一見すると混乱しているように見える言動も、その底には、常に自己実現をめざす努力 が潜んでいると考えられる。換言すれば人は、誰も自分自身の問題を建設的に処理する 能力と意欲を潜在的に持っているのだから、それを促進する環境が与えられ れば、自主的に学習し、またこうして生じた学習こそが、学習者の人間的成長に意味があると主張したのである。
Community Language Learning などがその考えを適用した外国語教授法である。
ただここでの教員の役割は、あくまでも副次的なものである。具体的な教室の場面で言えば、学習者の発言を受容し、賞賛したり励ましたり、時としては友好的なアドバイスを与えることはできても、学習をどの方向に、どのような方法で進めるかという最終的な責任は、学習者にゆだねられることになる。
ただし、この場合は学習者は自我の成立したある程度の大人である必要がある。年少の学習者の場合などは、必ずしもこの考えが成立するとは限らない。
ロジャーズの「学習者中心学習」とブルーナーの「発見学習」
ロジャーズの「学習者中心学習」は、ある意味で、認知主義心理学の考えと、特にブルーナーの「発見学習」と共通する点がある。学習者中心学習は、発見する内容自体を学習者にゆだねる方法である。
これらの心理学理論の活用
これらの心理学の考えであるが、どれが正しくて、間違っているということはない。これらをそれぞれ取り入れた外国語学習法が望まれる。たとえば、新しい言語事項が学習される場合は、まず認知的な活動が行われるのだが、その事項が内在化される課程では、習慣形成が不可欠である。さらに、両方のプロセスとも、学習者の情緒が安定して、この学習が自分に役立っているという信頼感が必要である。
あるいは、学習者は初めのうちは、機械的な暗記が必要な点があるので、刺激ー反応による習慣形成学習をおこない、徐々に、総合的な思考力が必要になってきたら、認知主義的心理学や人間学的心理学の手法を使うことが可能になる。
あるいは、学習者の年齢に応じて、どのような方法がふさわしいか選択されてゆくべきである。